「採血」  藤次郎はこのところの胃痛で、子供の頃からのかかりつけの岡崎病院に行った。ここの 女医岡崎悦子は藤次郎の中学時代の後輩である。  「玉珠さんはお元気ですか?」  「相変わらず、元気で…」  などと、悦子は診察ベッドに横になった藤次郎の腹部を押して、雑談をしながら診療は 続いていく、そして、  「うーーん、会社の健康診断では特に異常はなかったというから、神経的なものだと思 うけど…」 とカルテを見ながら難しい表情をしていた悦子は、藤次郎に向かって  「胃カメラ飲んでみます?」 と、藤次郎に悪戯っぽい笑みを向けた。藤次郎はギョッとして  「胃カメラ…飲まなきゃ駄目?」 と言った。それに対して、悦子は嬉しそうになお且つ白々しく  「んーー、駄目かも…」 と言って少し首を傾げて微笑んだ。藤次郎が慌てた様子を見せたので、ニンマリして  「まぁ、二度手間になるけど、まずは精密検査受けて下さいね」 と言って、悦子は藤次郎に向いたままカルテを差し上げると、それをすかさず看護婦が受 け取った。  「はい、萩原さんそれでは血液検査します」  その看護婦はニッコリと微笑みながら、藤次郎に言った。  「はい」  看護婦に連れられて検査室に入ると、今では、もう十数年来の顔なじみになった看護婦 が、  「はい、腕を出してください」 と言った。この看護婦は、見習いの頃からこの病院に居るが、看護婦が入った最初の仕事 が、実は藤次郎の採血で、藤次郎の腕の血管がなかなか出てこないので泣き出してしまっ たことがある。  藤次郎の血管の細さは、当時のベテランの婦長も困らせた程で、婦長も最初の試練とし て看護婦に藤次郎の採血を命じたのであったが、まさか泣き出すとは思わなかったらしく、 慌ててフォローしたが  「…私、頑張ります!」 と言い切った看護婦に対して、婦長はアドバイスしながら採血のノウハウを教えた。それ はいいとして、可哀想なのは実験台にされた藤次郎である。何度も採血注射の針を腕に刺 され、時には指したまま血管を探されたりして、痛い思いをした。  そんなことがあったのだが、今では藤次郎はすっかり看護婦を信頼していた。  「ああ、そうだ。先日、会社の健康診断で採血されました」  シャツを腕まくりしながら言う藤次郎の腕をとり、  「あら、そうですか」 と言って、看護婦は藤次郎の腕の採血の痕を見た。  「…確かに、少し腫れていますね」 と言いながら、動揺している看護婦の感情が、藤次郎の手首を握っている看護婦の手を通 して藤次郎にも感じ取れた。実は、健康診断で採血した検査医師はよい腕で、あっと言う 間に藤次郎の腕の血管を浮き出させて、採血を採ってしまったのである。その腕前をベテ ランの看護婦は採血痕から読み取ったのであろう…  「かなり、上手い人ですね。痛くなかったでしょう?」 と上目使いで正直に言う看護婦に、  「はい」 と、藤次郎は素直に答えた。  「でしょうね…採血痕の腫れが小さいですからね…実にうまい場所を刺しています。い つも私が刺している場所です。でも、同じ場所に刺せませんから、言い訳がましいですが 別の場所に刺さないといけないので、ちょっと痛いかもしれませんが…」 と言って、看護婦は昨日採血された場所の近くに採血針を刺したが、血管をはずしたらし く、少し針を腕の中で動かした。  「…イテ!」 と藤次郎が言うと、  「…あら、ごめんなさい」 と言った。  それでもなんとか採血を終了して、レントゲン室に連れて行かれ、  「これ苦手なんだけど…」 とぼやきつつも、先日同様バリウム検査を行い、発泡剤によるゲップが出そうになるのを こらえながら、レントゲン技師の指示に従って、レントゲン台の上で横になったり、仰向 けになった、時には腹部を押されてこらえきれずにゲップが出たため、また追加の発泡剤 とバリウムを飲まされたりと、散々な目にあった。  「はい、お疲れ様でした」 と言う看護婦に対して、藤次郎が  「本当に、疲れたよ」 と言うと、看護婦は笑っていた。そのまま看護婦の先導で、廊下を歩き出したところで、 慌てたレントゲン技師が藤次郎達を呼び止めた。  「レントゲン台が血だらけですか、大丈夫ですか?」 驚いて、藤次郎が検査衣を見ると、確かに血だらけになっている。でも藤次郎自体は、な にも痛みを感じていなかった。すると、「あっ!」と驚いた看護婦の目線を追うと、藤次 郎の腕の採血をした場所に貼ってある絆創膏から血がたれていた。  「あーーーっ、大変!」  慌てた看護婦は、藤次郎を処置室に引っ張っていって、採血痕の血を丁寧に拭き取ると、 換えの絆創膏を貼り替え、更に  「一応念のためですから」 と言って、絆創膏の上に、また絆創膏を貼った。  藤次郎は「おいおい…」と不安にありながらも、黙って看護婦の処置に任せていた。  一通りの検査が終わって一週間後、  「…どうでしょう?」 と、恐る恐る聞く藤次郎に、  「やっぱり、胃カメラ飲んでみますかね」 と、悦子は嬉々とした表情で言った。  「…うそだろ…」 と聞き返す藤次郎に、  「半分冗談ですけど、この際、きっちりと調べた方がいいです」  悦子は真顔で言った。  「わたし、胃カメラ初めてなんです」 と、先日の顔なじみの看護婦が言った。  「…冗談だろ?また、実験台かよ」 と、藤次郎が漏らすと、  「旦那、今ならお安くしときますって」 と、わざとらしく悦子が言った。 藤次郎正秀